LifeStory代表理事大和泰子 (本名:茂木)

家族のいない独りぼっちの寂しさ

 

未婚の母から私は生まれました。

父親もいない、兄弟姉妹もいない、近くに親戚もいなくたった一人の肉親は母親のみ。

幼少の頃そんな母親からは、「あなたが生まれてきた事で私は不幸になった。生まなきゃよかった」と言われ、「勝手に生んだくせに!!」とよく言い返していました。そして母からの暴力で私の顔は傷だらけでした。母の怒りが頂点に達する前に家を飛び出すと、鍵がかけられ家の中に入れず、一週間外で過ごす事もありました。寒い冬の夜、外から見る家々の窓には灯りがともり、家族と楽しく暖かいごはんを食べている様子がわかりました。家族のいる温かい家が羨ましくなるのと同時にとても孤独な気持ちになりました。

小学校に行くようになると、給食があり空腹を満たすことが出来るようになりましたが、母の暴力は止まることはなかったので、つかまれた髪の毛をハサミで切られてへんてこりんな髪形になった事があります。切り取られた短すぎる髪をごまかすためにヘアバンドをしたり、絞められた首に母の手の跡がついたのを隠すために夏なのにハイネックのシャツを着ることもありました。

今思うと、無いところからどうにか生み出す工夫や我慢強さはこれらを経験したからかもしれません。

あざだらけの私の姿を見た友達のお母さんが、「お母さんに言ってあげる!」と言い母に会ってくれました。しかし母は、友達のお母さんへも攻撃的になったのを見て迷惑をかけてしまったと、とても辛い気持ちになったのを鮮明に覚えています。現代のように、相談できる場所も施設もなく保護してもらえるところはありませんでしたので、このことを切っ掛けに一切誰にも相談することが出来なくなりました。

 

中学生になった私は体力もつき、反抗期も重なり、不良と呼ばれる子たちとつるむようになりました。家に帰りたくない一心で朝まで公園で過ごすこともあり、たまに警察につかまり家に戻されるという事を繰り返しているうちに、母が「子供が不良になったので更生させて欲しい」と、宮崎にいる実家の長男(私からすると叔父)に連絡しました。そして宮崎の叔父の家に預けられました。

それまで、家族というものを全く知らず、愛情を受けずに生きてきたので、最初はとまどいました。叔父の家には、叔母といとこが3人の5人家族です。

夜は布団でゆっくり眠れ、食事も3食しっかり普通に食べれる事が夢のようでした。そして夕食は、5人家族プラス私で一気に6人家族になったような生活になり、家族の温かさを感じる事ができました。いとこは兄弟のように接してくれて、叔母は、私に生き方や考え方などまるで自分の子供を育てるように、愛情深く育ててくれました。そのお陰で、私は生まれて初めて家族の愛情を感じて生きることが出来ました。叔母は産みの母ではなく血は繋がっていませんが、今でも本当の親のように心配して電話をくれたりします。私も母のように思えて安心できます。

 

血のつながりの無い人に助けられた

 

私が宮崎にいた2年間の間に、実の母は結婚していました。養父になった人は、とても優しく大らかな人だったので、私は直ぐに慣れていきました。しかし、幸せな生活は長くは続かず、母の勝手な行動と暴言でせっかく養父になってくれた人も追い出してしまい、また母と2人の生活に戻りました。そして私はいつか殺されるのではないか?といつもビクビク、ドキドキ心休まる時がありませんでした。そんな状況をみかねた養父が、母と離れて暮らせるように援助してくれました。今思うと、この時に養父が援助してくれなかったら今の私はこの世に存在していないと思います。

その後、私は結婚して子供にも恵まれ自分の家族を持つことができたことで、幼少の頃の孤独や苦しみはいつしか薄れて忘れていました。

 

たった独りで病気を抱えて亡くなった人の孤独

 

1993年大手生命保険会社で生命保険を販売している時も、「私のお客様にはお墓に入るまでサポートします!」と言い続けてきました。2000年にFPとして独立した時も、「ライフプランは一生涯のサポートなので安心してください!」と言ってきました。ところが、私のお客様のおひとりさまが亡くなりました。持病を抱えていたことを誰にも言えず相談先がなかった事をあとで知りました。不思議とその後、毎年のようにおひとりさまが亡くなりました。肺ガンで闘病していたSさんは、時々不安になると、「保険の内容を確認したいので病院に来て説明して欲しい」と連絡がありお見舞い方々お伺いしました。「会社に復帰できなくなると困るから会社にはガンの事話してないんだよね」と、保険の内容ではなく話をしたかったと後で言われたり、ある時は「時々、死ぬのかなと思うと怖くて眠れなくなるんだよ」などと弱音を聞く事もありました。

 

何人もなぜ、おひとりさまばかり亡くなるのだろう・・・

私は、何もできないのに何故みんな私に話すのだろう・・・

何か気持ちがわかる気がするのは何なのだろう・・・

 

色々考えている時に、ふと幼少の頃の孤独な気持ちが鮮明に蘇りました。

誰にも話せない、誰にも分かってもらえない、手を貸して欲しくても助けてと言えない

独りで悩み苦しかった時を思い出しました。

 

おひとりさまで病気を抱える苦しさ、ひとりで亡くなる不安

どんなに苦しかったのだろうか。

もしかしたら、私はこのような人たちの気持ちを知るために幼少の頃孤独な体験をさせてもらったのではないのか。

私はこのような人達を支援する使命があり生まれてきたのではないかと感じました。

重い病気を患っていた奥様と、のちにおひとりさまになったご主人様

2016年おひとりさま支援 家族代行サービス事業をスタート

 

こうして、おひとりさま・一人暮らし高齢者・おふたりさま(子供がいない夫婦)が

病気になった時、認知症になった時、亡くなった時に家族の代わりにサポートする「家族代行サービス」を立ち上げる事になりました。

入院時の手続きやお医者様との話合いに同席する事もあります。また、身体機能が低下して一人で生活する事が難しくなった時は、施設の見学に同行したり契約に立ち会ったりします。心身共に機能が低下した時には気力や体力が無く判断力も低下するからです。亡くなったあとは、遺体のお迎え、火葬場でのお見送り、納骨や散骨、遺産や遺品を後世へつなぎ整理が終わるまで、私達が家族の代わりになって全て行います。

おひとりさまの支援を行う事で、おひとりさまがどんどん笑顔になっていくのを見られる事は喜びであり、生きがいになっています。そして「もしもの時に頼れる人がいる事でこの先安心して生きれるわ」と嬉しい言葉もいただけています。

 

家族代行サービスの包括あんしん協会を設立する前に立ち上げた、株式会社ウィッシュレーンは2008年に発足しました。この会社を設立した時に出会った理事の土屋とは出会うべくして出会ったと運命的なものを感じました。共に経営に関わって歩んできた、土屋には相当苦労をかけました。土屋は、軸があり、毅然とした姿勢の中にとても大らかで明るい性格で、それがどんなに支えとなり力をくれたか計り知れません。ここまで共に歩んできてくれた事に感謝しています。おひとりさま家族代行サービス事業の設立にあたっては、色んな専門家に相談しても、おひとりさま支援は困難で事業としては成り立たないので止めた方がいいと言われました。そんな中で、「これからの時代に必ず必要とされる仕事だからやろう!」と土屋は笑顔で言ってくれました。

実際にお客様の現場に携わってきた二人だからこそ、時代のニーズを感じてスタートできたのだと思います。

 

前例のない事業の立ち上げは、ゼロから利用者の声を集めて、調べて、検証して何度も失敗をして改善してきました。当初は、会員契約締結の時に詐欺だと思われ警察を呼ばれるという苦い経験もあります。しかし会員になってくれた人から、逆に案をもらったり応援してもらったりして育てていただきました。

 

仕事のパートナーやお客様に支えられてここまで来れた事に感謝しています。そしてとても幸せなことだと感じています。

今は、仕事で関わる人や会員の方がもう一つの私の家族のようです。

 

2025年には、一人暮らし高齢者が750万人に達します。

一人でも多くのおひとりさまに安心してもらえるサポートをし続けます。

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